Daihondo/Reihido
大本堂は、明治戊辰の戦火により、一時消失しましたが同25年、鈴木信教和尚により新たに建立されました。地方で類をみない本格的密教寺院の構造を備えた総欅造りの建物です。本尊金剛界大日如来を奉安し、内部には、郷土が生んだ彫刻家・三木宗策先生による弘法大師一代記欄間や、佐藤義重先生作の釈迦如来一代記欄間、村上田邨画伯の筆による天上画等があります。また霊碑堂(光明殿、大師殿)は全国屈指の荘厳さで、詣でる人に癒しとやすらぎを与えています。
Syoin
明治天皇東北御巡幸の時、白河に行在所として建立された木造二階建の建物を書院として移築した、由緒あるものです。平成10年12月25日、国登録文化財として認定されました。
観音堂
Kannondo
平城天皇御下賜の馬頭観音菩薩を本尊としてお祀りしています。昭和35年に完成した鉄筋コンクリート造り本瓦葺の荘厳な近代的建築で、七日堂例大祭、観世音夏祭りには多くの参詣者でにぎわいます。
仁王門
Nioumon
戊辰の戦火で消失を免れた欅造りの大門で、2体の仁王像と風神、雷神像をお祀りしています。約200年前に建立当時そのままを現在に残す、当寺で最古の建造物です。
不動堂
Hudoudo
隣りの国宝殿と同時に平成13年に新築されました。矜羯羅・制咜迦の二童子を従え、両眼を大きく見開く座像は、真言宗祖・弘法大師請来様式の不動明王を本尊として奉安しています。
Ibonashikane
高嶽山の晩鐘「いぼなし鐘」として親しまれてきた古鐘。郡山八景の一つで、昭和25年には除夜の鐘として全国にその鐘音を響かせました。「イボナシ」というのは通称で、鐘の部位を示す乳の町(乳の間)に見られるイボ(凸起)を持たず、代わり五字四行ずつの真言が陽鋳されています。当時は鐘の補強上からも鐘声上からも至難な技術を要したといわれています。口径83.5cm、高さ1m12cm、撞座は複弁式八葉の蓮華文が五箇鋳造の珍しいものです。鐘楼は昭和4年焼失し、同年再建されました。現在、鐘楼堂の梵鐘は平成9年に複製したものです。
寛永四年の旧名及文化丙寅鑞月十三の銘(昭和18年10月1日文部省指定)
承元2年8月11日の銘(昭和11年5月6日指定文部省告示第226号)
国宝
石造笠塔婆
Ishidukuri kasatouba
龕と呼ばれるくぼみには、蓮台に座し定印を結んだ阿弥陀如来が浮き彫りにされています。構造は餓鬼草紙に見られる笠塔婆の系統に属し、この形式による追善供養塔としては日本最初のもの、さらに種子曼荼羅は日本最古のものです。
建治2年3月6日の銘(昭和11年5月6日指定文部省告示第226号)
国宝
板石塔婆
Itaishi kasatouba
塔身上方に方円三重の輪郭があり、中に十七の種子(梵字のこと)が配置されています。これは阿弥陀曼荼羅で、さらに下方には造塔の願文が刻まれています。この供養塔は中世代の信仰遺物として、また阿弥陀曼荼羅の表現においても特殊性を持つ貴重な文化財です。
Suzukisinkyohaka
鈴木信教は山形県村山郡に生まれた僧侶で、明治25年(50歳)まで如寳寺の住職を勤めました。当時の日本には子返しや間引きなどの悪習がありましたが、和尚はこの悪風を正すとともに胎児生児の保護養育とそれを困難とする家々にも慈愛の手を差しのべました。養育した子等は実に200人。その費用は自ら収入で賄い、ご自身は粗衣粗食に甘んじて一寺の住職という風采を見ることが出来なかったといいます。また盛隆舎の設立に協力し、教鞭をとり、新田開墾で開成社事業を助けるなど、養育事業・学校教育・地方開発に全生涯をかけ尽力した名僧として、その名を今に伝えています。
昭和12年12月21日文部省指定/
昭和31年9月4日県指定
観音清水
Kannonshimizu
仁王門の下に石の水盤があり、(文化三年再興)清冽な水常に溢れ、慈悲清水とも言われています。明治天皇東北御巡幸の際には、御膳水として使われました。
元禄七申戊年八月二日のの銘(昭和33年5月市指定)
切支丹墓碑
Kirishitanbohi
郡山旧家・川崎屋宗形氏の先祖の墓で、銘に残る元禄7年は島原の乱後57年にあたります。当時キリシタン弾圧の厳しい時代で、はっきりと十字章を残したものは珍しく、当地方にキリシタンが多く存在したことを明らかにすると同時に、切支丹研究にも貴重な墓碑となっています。
布目瓦
Nunomekawara
市内清水台鐘堂虎丸長者屋敷跡と伝えられる地域から出土した、郷土史研究にも重要な古瓦。
本尊 金剛界大日如来像